イエス キリスト。 たった3分で読める!実在したイエスキリストの生涯を解説【画像付】

末日聖徒イエス・キリスト教会

イエス キリスト

[生]前6~前4頃. ベスレヘム [没]後30頃. エルサレム 世界最大級の宗教の一つであるの創始者。 の,のイエスともいう。 イエスの行ないとことばはの四つのに記されて今日に伝えられている。 書の記述は信仰と史実が融合しているが,生涯のは知ることができる。 イエスは神からつかわされて救いを告知する神の子,をもって自認し,神の国の到来と,特に貧者,病者,罪人の解放の福音を述べ伝えたほか,多くの癒やしの奇跡によって悩める人々を救ったといわれる。 しかし形骸化した律法に固執する当時の指導者の偽善を厳しく批判し,律法からの解放と,真の隣人愛を説いたため,彼らからローマに対する反逆人として訴えられ,30年頃郊外で十字架刑に処せられた。 このイエスが 3日後に復活したとする確信によって弟子たちのイエスを救い主とする信仰が固められ,十字架の死は人類を罪から救うあがないの死であり,これによって旧約に代わる救いの新しい契約が神と人との間になったとされて,教の宣教が開始された。 この表現自体が彼を開祖と仰ぐキリスト教徒の立場を反映していることに注意しなければならない。 の伝えるその生涯は巌密な史学的検証に耐えないが,およそ以下のように推定される。 大王(前4年没)の晩年にガリラヤのナザレに生まれ,後28年ころバプテスマのに洗礼を受けてその運動に参加,のち独立してガリラヤを中心に宣教し,後30年ころエルサレムで捕縛・処刑された。 死後復活して弟子たちに顕現したと伝える。 ここに原始キリスト教が成立,以後の世界史に重大な役割を演じることになった。 その生誕年が西暦紀元とされるが、実際には差があると考えられている。 「イエス」は「ヤーウェ(イスラエルの神)は救いである」という意味のヘブライ語の人名イェホーシューア(短縮形ヨシュア)のギリシア語音訳(正確にはイエースース)。 「キリスト」は本来固有名詞ではなく、「油注がれた者」を意味するヘブライ語マーシュィーアッハ(メシア)にあたるギリシア語(正確にはクリストス)である。 これは『新約聖書』時代のユダヤ人には救済者の称号となっていたが、他の諸民族の間ではその意味が理解されず、したがってイエス・キリストは固有名詞として用いられるようになった。 [川島貞雄] イエスの実像と資料イエス・キリストに関する『新約聖書』以外の資料は多くない。 ユダヤ教のラビ伝承によると、イエスは魔術を行い、イスラエルを惑わし、背教させたので過越祭 すぎこしのまつり の前日に処刑された(『タルムード』「サンヘドリン」43a)。 しかしこれらはいずれも『新約聖書』から知りうる事柄を本質的に越えるものではない。 『新約聖書』のなかでイエスに関する主要資料は福音 ふくいん 書であるが、福音書は単なる過去のイエスの歴史ではなく、彼を救済者として信じている原始教会の人々の信仰の告白であり、弁証でもある。 福音書著者たちは、それぞれの状況と視点から独自のイエス像を描き出しているが、「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(「ヨハネ伝福音書」20章31)ということばが、基本的には、すべての執筆動機を言い表している。 確かに福音書には、イエスに関する古い伝承がしばしば原形に近い形で保存されている。 しかし伝承が、すでに福音書以前の口伝の段階で宣教、礼拝、教育など教会の諸活動に適するような仕方で形成されてきたことも考慮されねばならない。 最近の研究は、教会の諸活動だけではなく、伝承の担い手の社会的状況も伝承の形成に影響を及ぼすことに注目している。 したがって、福音書をイエスの資料として用いるときには、慎重な学問的・批判的検討が必要となる。 [川島貞雄] 生涯イエスの生年の確定はむずかしい。 「マタイ伝福音書」(2章1)によると、彼はヘロデ大王の統治下(前37~前4)に生まれたが、「ルカ伝福音書」(2章1)によると、その誕生は皇帝アウグストゥスによる人口調査の勅令発布の年と結び付けられている。 一般にこの人口調査は紀元後6~7年に実施されたと考えられているが、勅令はすでに紀元前7年に発布されていたと推測する学者もいる。 ベスレヘムをイエスの出生地とする「マタイ伝福音書」(2章1以下)と「ルカ伝福音書」(2章1以下)の叙述は、メシアはベスレヘムから現れるという、ユダヤ人の期待(「ミカ書」5章2)に基づく物語であるかもしれない。 古い伝承によると、イエスは「ナザレのイエス」とよばれているので(「マルコ伝福音書」10章47ほか)、ガリラヤのナザレの出身であったと推測される。 父はヨセフ、母はマリア。 兄弟たちや姉妹たちもいた(「マルコ伝福音書」6章3)。 「マタイ」「ルカ」の両福音書の誕生物語では、イエスを処女マリアから生まれたとして、イエスの聖性の根拠としている。 少年時代については、12歳のときエルサレムの神殿で教師たちと問答をし、その賢さに人々が驚嘆したという物語(「ルカ伝福音書」2章41以下)のほかには、何も知られていない。 紀元28年ごろヨルダン川のほとりでヨハネの洗礼運動が始まると、彼から洗礼を受け、やがて弟子たちを集めて宣教活動を開始した。 「マルコ伝福音書」によると、イエスの活動のおもな舞台はガリラヤである。 彼は民衆の間で教え、病人を癒 いや し、悪霊祓 ばら いを行うが、後述するように、ユダヤ教の伝統的教えに対して自由にふるまったため、律法学者やパリサイ人などユダヤ教指導者の反感を買った。 最後に、過越祭を祝うためエルサレムに上京(日曜日)、そこでユダヤ教指導者たちと論争し、弟子たちを教えるが、その週の木曜日に十二弟子と過越の食事(最後の晩餐 ばんさん となった)をともにし、その一人であるイスカリオテのユダに裏切られ、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)によって逮捕、審問され、涜神 とくしん の罪で死刑の判決を受けた。 しかし当時ユダヤ人は死刑執行権をもたなかったので(「ヨハネ伝福音書」18章31)、イエスをローマの総督ポンティウス・ピラトゥスに反ローマ運動の指導者として訴え、死刑を強く要求した。 福音書によれば、ピラトゥスはイエスにその罪をみいだすことができなかったが、ユダヤ人の声に負け、彼を「ユダヤ人の王」すなわち反ローマ的メシア僭称 せんしょう 者として、エルサレム郊外のゴルゴタの丘で十字架につけた。 このことから、イエスは実際に反ローマ的暴力革命の指導者であったと想像する学者もいるが、福音書によれば彼の運動は政治的でも軍事的でもない。 しかしイエスのように、この世界の終焉 しゅうえん を意味する神の国の宣教と治癒活動によって多くの抑圧された貧しい民衆をひきつける者は、支配者にとって好ましくない人物に違いなかった。 しかもイエスのもとに集まる民衆のなかには、彼の意に反して民族的メシア王国の実現を期待する者もいたので、支配層はそこにいっそう危険を感じたことであろう。 そのためにイエスの処刑には福音書が報告する以上に、ローマ人が積極的に関与したかもしれない。 処刑の日は金曜日であったが、「マタイ」「マルコ」「ルカ」の3福音書によると過越祭の日(ユダヤ暦のニサン月15日)、「ヨハネ伝福音書」によるとその前日である。 いずれが正確であるかは今日なお議論されている。 後者をとるならば、紀元30年4月7日の可能性が生じてくる。 この場合イエスの活動期間は、そのなかに三度の過越祭を数える「ヨハネ伝福音書」から推定されるように、2年余りであったと考えられる。 この福音書によると、彼は4回エルサレムに上京し、ユダヤ地方にも長く滞在している。 ガリラヤをイエスの活動の主要舞台とし、エルサレム滞在を1週間たらずに限定する「マルコ伝福音書」の構成は、ユダヤ教指導者から蔑視 べっし されがちなガリラヤをイエスの活動の場所、ユダヤ教の中心地エルサレムをイエスの受難と死の場所として図式化しようとする福音書著者の意図を表しているのかもしれない。 この限りにおいて、彼はユダヤ教黙示文学の世界に住んでいた。 しかし、彼の宣教は独自の特色を備えている。 彼にとって神の国は単に接近しているだけではなく、すでに現在の事実となっている。 彼の行う悪霊追放はそのしるしとして解釈される。 「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」(「ルカ伝福音書」11章20)。 このように神の国は、未来の事柄であると同時に現在の事実でもある、という。 これは一見矛盾であるようにみえるが、イエスにとって決定的に重要なことは、人はいまや神の支配に直面し、それを受容するか拒否するかの決断を迫られているということである。 神の支配は人が距離をおいてその到来のときを算定したり、その光景を想像したりすることができるような事柄ではない(「マルコ伝福音書」13章32)。 いまや態度決定の保留は許されない(「マタイ伝福音書」11章16~17)。 最後の審判においては、ユダヤ民族の特権は認められない。 救済の道は各人の悔い改めと信仰のみである(「ルカ伝福音書」13章1以下、「マタイ伝福音書」8章10以下)。 しかしイエスは神の審 さば きよりも恵みを強調する。 神は慈愛に満ちた天の父として、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださる」(「マタイ伝福音書」5章45)。 天にいます神すなわち聖なる超越的な神は、遠き神であると同時に、幼児が父親を呼ぶときに使う「アバ」ということばで、親しく、全き信頼をもって呼びかけることができる近き神でもある(「ルカ伝福音書」11章2、「マルコ伝福音書」14章36)。 迷い出た一匹の羊を懸命に捜し歩く羊飼い、失われた一枚の銀貨を一心に捜す女、放蕩 ほうとう 息子の帰宅を喜び迎える父親などに関する一連の譬 たとえ (「ルカ伝福音書」15章1以下)は、神の国は人間の敬虔 けいけん や功績に対する報酬ではなく、純粋な恵みの賜物 たまもの として、「律法をわきまえない群衆」(「ヨハネ伝福音書」7章49)に与えられることを示している。 したがってイエスは、律法を守りえないゆえに神から見捨てられているとみなされていた取税人や罪人と食事をともにし、彼らに救いを約束する(「マルコ伝福音書」2章16以下)。 他方、自己の敬虔に頼り、それを神の前に誇り、その報酬として救いを得ようとする者は、神から退けられる(「ルカ伝福音書」18章9以下)。 そこには高慢の危険がある。 こうしてユダヤ教的報酬思想は批判され、ユダヤ教指導者たちはイエスのふるまいに憤る。 神の無限の恵みの賜物として神の国を約束された者は、それに対する感謝の応答として神と隣人への限りない愛を求められる。 神への愛と隣人への愛は不可分であり、この二重の戒めよりも大事な戒めはない(「マルコ伝福音書」12章28以下)。 そして愛は敵にまで及ばなければならない。 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(「マタイ伝福音書」5章44)。 こうしてイエスは、愛を徹底的に重視する結果、ときにはユダヤ教律法の規定に反する言動をも示す。 安息日に病人を癒し(「マルコ伝福音書」3章1以下)、法的、社会的に弱い婦人の立場を考慮して離婚を禁じ(同10章1以下)、人間相互の交わりを妨げる食物規定を批判する(同7章15)。 しかし律法に対する批判的言動はユダヤ教からみれば涜神 とくしん にほかならず、とうてい許容できるものではなかった。 これがイエス処刑の決定的な原因になったと思われる。 [川島貞雄] イエスの人格福音書を批判的に読むと、イエスがメシアの自覚をもち、自己に対する信仰を要求したと推測することは困難である。 しかしイエスは律法およびその伝統的解釈に拘泥する律法学者とは異なり、自らの権威によって、神の意志を説いた(「マルコ伝福音書」1章22)。 その発言が「まことに、まことに(アーメン、アーメン)わたしはあなた(がた)にいう」ということばで始められることもあるが(「ルカ伝福音書」4章25ほか)、このイエス独特の導入句は、並外れた確信と権威を暗示する。 彼は前述したように律法に対しても自由にふるまう。 弟子たちに対しては絶対的、徹底的服従を要求する(「マタイ伝福音書」10章37、「マルコ伝福音書」8章34以下)。 彼の奇跡は神の支配のしるしである。 彼に出会う者は神の支配に直面する。 それを受けるか拒むかの決断が人の運命を最終的に、永遠に決定する(「マルコ伝福音書」8章38)。 したがってイエスは、律法を論じ知恵を教える教師、神の国の到来を告げ知らせる預言者、多くの病人を癒す奇跡行為者などの範疇 はんちゅう を超えていた。 [川島貞雄] 復活イエスが逮捕されるや、弟子たちは彼を見捨てて逃げ去ってしまったが、まもなく、イエスが復活したとの確信を抱き、彼を神の子メシアとして信じ、その死を『旧約聖書』に書かれている神の救済計画に基づく贖罪 しょくざい の死と考えるようになった。 イエスの復活についてわれわれが所有する最古の伝承は、「キリストが、(旧約)聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、3日目に甦 よみがえ ったこと、ケパ(ペテロ)に現れ、次に、12人に現れたこと」(「第一コリント書」15章3~5)を伝えている。 ここには復活のイエスの顕現が語られているが、その詳細は明らかでない。 それはのちに成立した福音書の復活物語に待たねばならない。 確かにこれらの物語には、教会の神学的、護教的モチーフが多様な形で反映している。 イエスの墓が空虚であったという物語の歴史性については、議論が多い。 顕現の場所に関してもガリラヤであったか(「マルコ伝福音書」)、エルサレムおよびその近郊であったか(「ルカ伝福音書」)、あるいはその両方であったか(「マタイ伝福音書」「ヨハネ伝福音書」)、諸福音書の報告は一致していない。 しかしいずれにせよ、なんらかの形でイエスの顕現を経験した弟子たちは、「神が死人のなかからイエスを甦らせ」(「ローマ書」10章9)、天に引き上げ、万物の主とした(「ピリピ書」2章9~11)と信じ、「われらの主よ、きたりませ」(「第一コリント書」16章22)と祈りつつ、終末のときにおける彼の再臨を待ち望むようになったのである。 [川島貞雄] 美術に現れたイエス・キリスト美術におけるキリスト像は、生涯の物語場面の主人公としての像と、単独像として礼拝の対象となった教義的表現とに大別される。 しかしイエス・キリストの具体的な容姿については福音書にはいっさい記されていない。 この点について当然のごとく初代教会の教父たちの議論するところとなった。 『旧約聖書』には来るべき救世主(メシア)の姿かたちについての言及がたびたび認められる。 たとえば「イザヤ書」53章では救世主の容姿は貧弱であると記され、テルトリアヌスやオリゲヌスらの初代教会の神学者たちは、イエスも当然そうであったに違いないと記している。 しかし実際には、ギリシア文化の伝統を継承したヘレニズム世界に生まれたキリスト教美術は、「詩篇 しへん 」45章にみるもう一つの救世主像、つまり理想化され、人として最高の美しさをもった救世主像としてイエス・キリストの容姿を創造していった。 この場合二つの表現形式が生まれる。 短い巻毛の頭髪で髭 ひげ のない青年像と、黒く長い髪と同じく黒く豊かな髭を蓄えた荘厳なキリスト像とである。 6世紀ころまではキリスト教世界全域でこの二つの型の表現が採用されている。 しかし、後の東ヨーロッパの中世美術(ビザンティン美術)では荘厳なキリスト像が圧倒的となった。 西ヨーロッパの中世美術ではロマネスク美術時代までは二つの型が使い分けられていたが、ゴシック美術時代になって14世紀以降は黒く長い髪と有髭 ゆうし の荘厳なるキリスト像が優勢となる。 こうした美術におけるキリスト像のほかに、「真の肖像」の問題がある。 いわゆるアケイロポイエトス(人の手によって写されたものではない)としてのキリストの容姿で、次の三つがある。 まずキリストが押し当てた布にキリストの顔が写ったという「聖骸布 せいがいふ 」で、エデッサのアブガルス王伝説中のものと、聖女ベロニカのものとがある。 また死んだキリストの身体を包んだ布に全身像が写ったとされる北イタリアのトリノの聖布も現存する。 さらに使徒ルカが描いたとされる肖像など、生存中のイエス・キリストを人が実際に描いたものとされる肖像も伝説化されて伝えられている。 こうしてキリスト教美術は3~4世紀の形成期に、なによりもまず第一にイエス・キリストの容姿を定型化せざるをえなかったわけで、そこに生まれたのが前に記した二つの型であった。 青年像のキリスト表現が生まれた背景には、古代ギリシアのアポロン神像や英雄化された競技者像などがあったとみなされている。 同様に長髪で有髭の荘厳なキリスト像は、ゼウス神像やアスクレピオス神像、哲学者像や教師像、さらにオリエントの君主像などを原型としたものと推察されている。

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[生]前6~前4頃. ベスレヘム [没]後30頃. エルサレム 世界最大級の宗教の一つであるの創始者。 の,のイエスともいう。 イエスの行ないとことばはの四つのに記されて今日に伝えられている。 書の記述は信仰と史実が融合しているが,生涯のは知ることができる。 イエスは神からつかわされて救いを告知する神の子,をもって自認し,神の国の到来と,特に貧者,病者,罪人の解放の福音を述べ伝えたほか,多くの癒やしの奇跡によって悩める人々を救ったといわれる。 しかし形骸化した律法に固執する当時の指導者の偽善を厳しく批判し,律法からの解放と,真の隣人愛を説いたため,彼らからローマに対する反逆人として訴えられ,30年頃郊外で十字架刑に処せられた。 このイエスが 3日後に復活したとする確信によって弟子たちのイエスを救い主とする信仰が固められ,十字架の死は人類を罪から救うあがないの死であり,これによって旧約に代わる救いの新しい契約が神と人との間になったとされて,教の宣教が開始された。 この表現自体が彼を開祖と仰ぐキリスト教徒の立場を反映していることに注意しなければならない。 の伝えるその生涯は巌密な史学的検証に耐えないが,およそ以下のように推定される。 大王(前4年没)の晩年にガリラヤのナザレに生まれ,後28年ころバプテスマのに洗礼を受けてその運動に参加,のち独立してガリラヤを中心に宣教し,後30年ころエルサレムで捕縛・処刑された。 死後復活して弟子たちに顕現したと伝える。 ここに原始キリスト教が成立,以後の世界史に重大な役割を演じることになった。 その生誕年が西暦紀元とされるが、実際には差があると考えられている。 「イエス」は「ヤーウェ(イスラエルの神)は救いである」という意味のヘブライ語の人名イェホーシューア(短縮形ヨシュア)のギリシア語音訳(正確にはイエースース)。 「キリスト」は本来固有名詞ではなく、「油注がれた者」を意味するヘブライ語マーシュィーアッハ(メシア)にあたるギリシア語(正確にはクリストス)である。 これは『新約聖書』時代のユダヤ人には救済者の称号となっていたが、他の諸民族の間ではその意味が理解されず、したがってイエス・キリストは固有名詞として用いられるようになった。 [川島貞雄] イエスの実像と資料イエス・キリストに関する『新約聖書』以外の資料は多くない。 ユダヤ教のラビ伝承によると、イエスは魔術を行い、イスラエルを惑わし、背教させたので過越祭 すぎこしのまつり の前日に処刑された(『タルムード』「サンヘドリン」43a)。 しかしこれらはいずれも『新約聖書』から知りうる事柄を本質的に越えるものではない。 『新約聖書』のなかでイエスに関する主要資料は福音 ふくいん 書であるが、福音書は単なる過去のイエスの歴史ではなく、彼を救済者として信じている原始教会の人々の信仰の告白であり、弁証でもある。 福音書著者たちは、それぞれの状況と視点から独自のイエス像を描き出しているが、「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(「ヨハネ伝福音書」20章31)ということばが、基本的には、すべての執筆動機を言い表している。 確かに福音書には、イエスに関する古い伝承がしばしば原形に近い形で保存されている。 しかし伝承が、すでに福音書以前の口伝の段階で宣教、礼拝、教育など教会の諸活動に適するような仕方で形成されてきたことも考慮されねばならない。 最近の研究は、教会の諸活動だけではなく、伝承の担い手の社会的状況も伝承の形成に影響を及ぼすことに注目している。 したがって、福音書をイエスの資料として用いるときには、慎重な学問的・批判的検討が必要となる。 [川島貞雄] 生涯イエスの生年の確定はむずかしい。 「マタイ伝福音書」(2章1)によると、彼はヘロデ大王の統治下(前37~前4)に生まれたが、「ルカ伝福音書」(2章1)によると、その誕生は皇帝アウグストゥスによる人口調査の勅令発布の年と結び付けられている。 一般にこの人口調査は紀元後6~7年に実施されたと考えられているが、勅令はすでに紀元前7年に発布されていたと推測する学者もいる。 ベスレヘムをイエスの出生地とする「マタイ伝福音書」(2章1以下)と「ルカ伝福音書」(2章1以下)の叙述は、メシアはベスレヘムから現れるという、ユダヤ人の期待(「ミカ書」5章2)に基づく物語であるかもしれない。 古い伝承によると、イエスは「ナザレのイエス」とよばれているので(「マルコ伝福音書」10章47ほか)、ガリラヤのナザレの出身であったと推測される。 父はヨセフ、母はマリア。 兄弟たちや姉妹たちもいた(「マルコ伝福音書」6章3)。 「マタイ」「ルカ」の両福音書の誕生物語では、イエスを処女マリアから生まれたとして、イエスの聖性の根拠としている。 少年時代については、12歳のときエルサレムの神殿で教師たちと問答をし、その賢さに人々が驚嘆したという物語(「ルカ伝福音書」2章41以下)のほかには、何も知られていない。 紀元28年ごろヨルダン川のほとりでヨハネの洗礼運動が始まると、彼から洗礼を受け、やがて弟子たちを集めて宣教活動を開始した。 「マルコ伝福音書」によると、イエスの活動のおもな舞台はガリラヤである。 彼は民衆の間で教え、病人を癒 いや し、悪霊祓 ばら いを行うが、後述するように、ユダヤ教の伝統的教えに対して自由にふるまったため、律法学者やパリサイ人などユダヤ教指導者の反感を買った。 最後に、過越祭を祝うためエルサレムに上京(日曜日)、そこでユダヤ教指導者たちと論争し、弟子たちを教えるが、その週の木曜日に十二弟子と過越の食事(最後の晩餐 ばんさん となった)をともにし、その一人であるイスカリオテのユダに裏切られ、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)によって逮捕、審問され、涜神 とくしん の罪で死刑の判決を受けた。 しかし当時ユダヤ人は死刑執行権をもたなかったので(「ヨハネ伝福音書」18章31)、イエスをローマの総督ポンティウス・ピラトゥスに反ローマ運動の指導者として訴え、死刑を強く要求した。 福音書によれば、ピラトゥスはイエスにその罪をみいだすことができなかったが、ユダヤ人の声に負け、彼を「ユダヤ人の王」すなわち反ローマ的メシア僭称 せんしょう 者として、エルサレム郊外のゴルゴタの丘で十字架につけた。 このことから、イエスは実際に反ローマ的暴力革命の指導者であったと想像する学者もいるが、福音書によれば彼の運動は政治的でも軍事的でもない。 しかしイエスのように、この世界の終焉 しゅうえん を意味する神の国の宣教と治癒活動によって多くの抑圧された貧しい民衆をひきつける者は、支配者にとって好ましくない人物に違いなかった。 しかもイエスのもとに集まる民衆のなかには、彼の意に反して民族的メシア王国の実現を期待する者もいたので、支配層はそこにいっそう危険を感じたことであろう。 そのためにイエスの処刑には福音書が報告する以上に、ローマ人が積極的に関与したかもしれない。 処刑の日は金曜日であったが、「マタイ」「マルコ」「ルカ」の3福音書によると過越祭の日(ユダヤ暦のニサン月15日)、「ヨハネ伝福音書」によるとその前日である。 いずれが正確であるかは今日なお議論されている。 後者をとるならば、紀元30年4月7日の可能性が生じてくる。 この場合イエスの活動期間は、そのなかに三度の過越祭を数える「ヨハネ伝福音書」から推定されるように、2年余りであったと考えられる。 この福音書によると、彼は4回エルサレムに上京し、ユダヤ地方にも長く滞在している。 ガリラヤをイエスの活動の主要舞台とし、エルサレム滞在を1週間たらずに限定する「マルコ伝福音書」の構成は、ユダヤ教指導者から蔑視 べっし されがちなガリラヤをイエスの活動の場所、ユダヤ教の中心地エルサレムをイエスの受難と死の場所として図式化しようとする福音書著者の意図を表しているのかもしれない。 この限りにおいて、彼はユダヤ教黙示文学の世界に住んでいた。 しかし、彼の宣教は独自の特色を備えている。 彼にとって神の国は単に接近しているだけではなく、すでに現在の事実となっている。 彼の行う悪霊追放はそのしるしとして解釈される。 「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」(「ルカ伝福音書」11章20)。 このように神の国は、未来の事柄であると同時に現在の事実でもある、という。 これは一見矛盾であるようにみえるが、イエスにとって決定的に重要なことは、人はいまや神の支配に直面し、それを受容するか拒否するかの決断を迫られているということである。 神の支配は人が距離をおいてその到来のときを算定したり、その光景を想像したりすることができるような事柄ではない(「マルコ伝福音書」13章32)。 いまや態度決定の保留は許されない(「マタイ伝福音書」11章16~17)。 最後の審判においては、ユダヤ民族の特権は認められない。 救済の道は各人の悔い改めと信仰のみである(「ルカ伝福音書」13章1以下、「マタイ伝福音書」8章10以下)。 しかしイエスは神の審 さば きよりも恵みを強調する。 神は慈愛に満ちた天の父として、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださる」(「マタイ伝福音書」5章45)。 天にいます神すなわち聖なる超越的な神は、遠き神であると同時に、幼児が父親を呼ぶときに使う「アバ」ということばで、親しく、全き信頼をもって呼びかけることができる近き神でもある(「ルカ伝福音書」11章2、「マルコ伝福音書」14章36)。 迷い出た一匹の羊を懸命に捜し歩く羊飼い、失われた一枚の銀貨を一心に捜す女、放蕩 ほうとう 息子の帰宅を喜び迎える父親などに関する一連の譬 たとえ (「ルカ伝福音書」15章1以下)は、神の国は人間の敬虔 けいけん や功績に対する報酬ではなく、純粋な恵みの賜物 たまもの として、「律法をわきまえない群衆」(「ヨハネ伝福音書」7章49)に与えられることを示している。 したがってイエスは、律法を守りえないゆえに神から見捨てられているとみなされていた取税人や罪人と食事をともにし、彼らに救いを約束する(「マルコ伝福音書」2章16以下)。 他方、自己の敬虔に頼り、それを神の前に誇り、その報酬として救いを得ようとする者は、神から退けられる(「ルカ伝福音書」18章9以下)。 そこには高慢の危険がある。 こうしてユダヤ教的報酬思想は批判され、ユダヤ教指導者たちはイエスのふるまいに憤る。 神の無限の恵みの賜物として神の国を約束された者は、それに対する感謝の応答として神と隣人への限りない愛を求められる。 神への愛と隣人への愛は不可分であり、この二重の戒めよりも大事な戒めはない(「マルコ伝福音書」12章28以下)。 そして愛は敵にまで及ばなければならない。 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(「マタイ伝福音書」5章44)。 こうしてイエスは、愛を徹底的に重視する結果、ときにはユダヤ教律法の規定に反する言動をも示す。 安息日に病人を癒し(「マルコ伝福音書」3章1以下)、法的、社会的に弱い婦人の立場を考慮して離婚を禁じ(同10章1以下)、人間相互の交わりを妨げる食物規定を批判する(同7章15)。 しかし律法に対する批判的言動はユダヤ教からみれば涜神 とくしん にほかならず、とうてい許容できるものではなかった。 これがイエス処刑の決定的な原因になったと思われる。 [川島貞雄] イエスの人格福音書を批判的に読むと、イエスがメシアの自覚をもち、自己に対する信仰を要求したと推測することは困難である。 しかしイエスは律法およびその伝統的解釈に拘泥する律法学者とは異なり、自らの権威によって、神の意志を説いた(「マルコ伝福音書」1章22)。 その発言が「まことに、まことに(アーメン、アーメン)わたしはあなた(がた)にいう」ということばで始められることもあるが(「ルカ伝福音書」4章25ほか)、このイエス独特の導入句は、並外れた確信と権威を暗示する。 彼は前述したように律法に対しても自由にふるまう。 弟子たちに対しては絶対的、徹底的服従を要求する(「マタイ伝福音書」10章37、「マルコ伝福音書」8章34以下)。 彼の奇跡は神の支配のしるしである。 彼に出会う者は神の支配に直面する。 それを受けるか拒むかの決断が人の運命を最終的に、永遠に決定する(「マルコ伝福音書」8章38)。 したがってイエスは、律法を論じ知恵を教える教師、神の国の到来を告げ知らせる預言者、多くの病人を癒す奇跡行為者などの範疇 はんちゅう を超えていた。 [川島貞雄] 復活イエスが逮捕されるや、弟子たちは彼を見捨てて逃げ去ってしまったが、まもなく、イエスが復活したとの確信を抱き、彼を神の子メシアとして信じ、その死を『旧約聖書』に書かれている神の救済計画に基づく贖罪 しょくざい の死と考えるようになった。 イエスの復活についてわれわれが所有する最古の伝承は、「キリストが、(旧約)聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、3日目に甦 よみがえ ったこと、ケパ(ペテロ)に現れ、次に、12人に現れたこと」(「第一コリント書」15章3~5)を伝えている。 ここには復活のイエスの顕現が語られているが、その詳細は明らかでない。 それはのちに成立した福音書の復活物語に待たねばならない。 確かにこれらの物語には、教会の神学的、護教的モチーフが多様な形で反映している。 イエスの墓が空虚であったという物語の歴史性については、議論が多い。 顕現の場所に関してもガリラヤであったか(「マルコ伝福音書」)、エルサレムおよびその近郊であったか(「ルカ伝福音書」)、あるいはその両方であったか(「マタイ伝福音書」「ヨハネ伝福音書」)、諸福音書の報告は一致していない。 しかしいずれにせよ、なんらかの形でイエスの顕現を経験した弟子たちは、「神が死人のなかからイエスを甦らせ」(「ローマ書」10章9)、天に引き上げ、万物の主とした(「ピリピ書」2章9~11)と信じ、「われらの主よ、きたりませ」(「第一コリント書」16章22)と祈りつつ、終末のときにおける彼の再臨を待ち望むようになったのである。 [川島貞雄] 美術に現れたイエス・キリスト美術におけるキリスト像は、生涯の物語場面の主人公としての像と、単独像として礼拝の対象となった教義的表現とに大別される。 しかしイエス・キリストの具体的な容姿については福音書にはいっさい記されていない。 この点について当然のごとく初代教会の教父たちの議論するところとなった。 『旧約聖書』には来るべき救世主(メシア)の姿かたちについての言及がたびたび認められる。 たとえば「イザヤ書」53章では救世主の容姿は貧弱であると記され、テルトリアヌスやオリゲヌスらの初代教会の神学者たちは、イエスも当然そうであったに違いないと記している。 しかし実際には、ギリシア文化の伝統を継承したヘレニズム世界に生まれたキリスト教美術は、「詩篇 しへん 」45章にみるもう一つの救世主像、つまり理想化され、人として最高の美しさをもった救世主像としてイエス・キリストの容姿を創造していった。 この場合二つの表現形式が生まれる。 短い巻毛の頭髪で髭 ひげ のない青年像と、黒く長い髪と同じく黒く豊かな髭を蓄えた荘厳なキリスト像とである。 6世紀ころまではキリスト教世界全域でこの二つの型の表現が採用されている。 しかし、後の東ヨーロッパの中世美術(ビザンティン美術)では荘厳なキリスト像が圧倒的となった。 西ヨーロッパの中世美術ではロマネスク美術時代までは二つの型が使い分けられていたが、ゴシック美術時代になって14世紀以降は黒く長い髪と有髭 ゆうし の荘厳なるキリスト像が優勢となる。 こうした美術におけるキリスト像のほかに、「真の肖像」の問題がある。 いわゆるアケイロポイエトス(人の手によって写されたものではない)としてのキリストの容姿で、次の三つがある。 まずキリストが押し当てた布にキリストの顔が写ったという「聖骸布 せいがいふ 」で、エデッサのアブガルス王伝説中のものと、聖女ベロニカのものとがある。 また死んだキリストの身体を包んだ布に全身像が写ったとされる北イタリアのトリノの聖布も現存する。 さらに使徒ルカが描いたとされる肖像など、生存中のイエス・キリストを人が実際に描いたものとされる肖像も伝説化されて伝えられている。 こうしてキリスト教美術は3~4世紀の形成期に、なによりもまず第一にイエス・キリストの容姿を定型化せざるをえなかったわけで、そこに生まれたのが前に記した二つの型であった。 青年像のキリスト表現が生まれた背景には、古代ギリシアのアポロン神像や英雄化された競技者像などがあったとみなされている。 同様に長髪で有髭の荘厳なキリスト像は、ゼウス神像やアスクレピオス神像、哲学者像や教師像、さらにオリエントの君主像などを原型としたものと推察されている。

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イエス・キリスト

イエス キリスト

キリスト教、等に大きな影響を与えた。 人間は平和の神の子として平等であること 、神は父なる神であること、また、太陽や降雨などの環境を整えていて、人間をはじめ鳥類などの生き物を神は日々養っている。 日々の祈りをもって神とともに歩み、隣人を大切にして生きることなどを説いた。 概要 [ ] 「ナザレの」とは『』と『』でイエスが「ナザレのイエス」と呼ばれていることによる。 イエスという名は当時めずらしくなく 、姓の風習もなかったため、しばしば出身地を含めた呼び方で区別されていた。 においてはと呼ばれる。 史的イエスの存在 [ ] 存在については、、などの近い時代のがその著作の中で言及している。 主の祈りにある崇拝の対象と信仰の在り方 [ ]• とされているが、信者が個人的に神に祈る毎日の行が述べられている。 ナザレのイエスが率いていた集団は、神への祈りを信仰の中心に置いていた。 の対象は、平和の神としていた。 人間は平和の神の子として平等であることを説いた。 祈りの中においては、天におられる神を想起していた。 神は父なる神であるとしていた。 太陽や降雨などの環境を整えていて、人間をはじめ鳥類などの生き物を神は日々養っている。 神の名とは、神の存在そのものをさしている。 については、集団生活の中に神の王国は現れていたと見ることが出来る。 神への祈りの中で、日々の祈りをもって神とともに歩み、隣人を大切にして生きること を説いた。 試みを神からくるものとしてとらえ、神の導きのもとに歩むことを説いた。 悪 よりお救いください、と祈ることは、「罪」ではなく「悪」よりの救済がナザレのイエスが説いていた救済であることを示している。 のあいだではごく一般的な人名であった。 生涯 [ ] ヨハネによるイエスの洗礼(画) イエスの誕生については、彼の生涯を知る最重要資料である『』の各書で記述が異なる。 もっとも古く成立した福音書である『』では、イエスの伝道から記述を始めており、生誕については触れられていない。 イエスは処女から生まれたことになっているが、母マリアのは、『』と『』に記されており、『マルコ』や『』には記述がない。 生誕の地については、『ヨハネ』には記述はなく、『マタイ』と『ルカ』によれば、で誕生したことになっている。 これはイスラエルの救済者は、古代イスラエルの王の町であるベツレヘムで生まれるという予言が聖書にあることに由来するとされる。 『マタイ』『ルカ』『ヨハネ』によれば、父はダビデの末裔とされるが、メシアは彼の家系に生まれるという伝承預言があり、これも家系図からわかる通り成就しているとされる。 誕生と同様に、イエスの幼年期や少年期についても記述は少なく、例えば『ルカ』2章41-52節において、彼が12歳の時すでに旧約聖書を理解していたという旨の記述が見られるものの、それ以前についてはごく簡潔にまとめられているのみである。 と位置付けられる『』には、正典よりも多くの幼少時代についての記述が見られる(も参照)。 福音書が主として触れているイエスは、宗教活動を始めた時期からである。 その中で彼は、様々な教えを説き、を起こした結果、弟子の集団が構成されたことになっている。 福音書には、イエスがさまざまな病人の治療を行い、患者を癒し、死者をよみがえらせたなど、多数の奇蹟が記されている。 また、宣教の際に比喩(たとえ話)を多く用いたことも記されている。 イエスには多くの弟子ができ、福音書はを筆頭とする「」をその代表としている。 12使徒はすべて男性だが、女性であるが筆頭の弟子だったという説もある。 『』を初めとするでは、マグダラのマリアがイエスのもっとも愛した弟子で、彼の伴侶と呼ばれているという記述がある。 ただし、グノーシス文書自体は、単独の史料としての信頼性には疑問がもたれている。 に始まるの発見以来、イエスと当時のユダヤ教の一派であるとの関係について多くの説が出されたが、その後の研究によって彼が同派の人間でないことは確実になった。 エッセネ派からの影響については、その可能性はあるものの、あまり重要でない点に関することにとどまる。 また、イエスに洗礼をさずけたは、エッセネ派が帰属したの出自であったとする説があるが 、これも確証はない。 イエスの教え [ ] 福音書の記述と高等批評 [ ] には、イエスの言葉として「」 など群衆に対して語った、弟子など限られた対象に向けて語った言葉、当時の宗教指導者らとの問答といったかたちで、多くの言葉が収められている。 福音書の記述を史実と認める立場においては、福音書の中にイエスの教えについて多くの言説を認めることが可能である。 一方、いわゆる においては、福音書は「イエスの言行録」ではなく「宣教文書」であり、イエスが語ったとされる言葉がイエスに帰属するかを疑うというのが基本的立場である。 この立場においてイエスに帰属できる発言は数少ない。 はイエスの発言にさかのぼれる言葉は少ないながら、イエスの特徴として、既存の権威に頼ることなく自らの言葉で断定的に語り 、当時、一般に交流を深めることが忌避されていた人々(蔑まれ、虐げられていた人びと)に対しても分け隔てなく接し 、社会の底辺に視座を据え権力を批判した ことを認めている。 福音書からみた「史的イエス」 [ ] 「史的イエス」の解明のため最も重要な福音書 の記述によると、イエスの教えは「形式的律法主義を批判し、神の愛による救済と隣人愛を説いた」「(ユダヤ教的終末論に基づいた)神の国の実現の時が迫っていると宣べ伝えた」ことであると言える。 新約聖書から見た史的イエスの生涯 [ ] 歴史的に見ると新約聖書の著作の中でこの世に存在していたことが確認できているのは、ナザレのイエスとパウロである。 史的イエスの概略とパウロ自身によるものであることがはっきりしている書簡に基づいて、新約聖書から見た「史的イエス」について見ることが可能である。 紀元前6年ないし紀元前4年ごろのイエスはに生まれる。 バプテスマのヨハネの団体と何らかの関係があった。 ナザレのイエスがする3年ほど前、ナザレのイエスはで宣教を開始する。 パウロはユダヤ教徒であった。 紀元後30年ごろ によってナザレのイエスは他界する。 イエスはキリストだとする集団が生まれた。 パウロは多数のキリスト教徒を取り締まり、牢に入れた。 パウロはキリスト教徒となった。 ごろパウロは人への第一の手紙を記し 、書簡の中で、パウロは死んだはずのナザレのイエスに出会ったことがあるとしている (伝聞として書き記しているところでは、イエスがの中から起されたことや、12弟子や500人以上の人が死んだはずのナザレのイエスに出会ったことがあるということを聞いているということを書き記している)。 福音書等の成立年代と著者 [ ] マタイによる福音書 成立年代は80年代、場所は西シリア、著者は異邦人出身の無名のキリスト者とされる。 マルコによる福音書 執筆年代は70年代、場所は正確には不明(南シリア説が説得的)、著者は異邦人出身の無名のキリスト者で、便宜的に伝説上のマルコという名前を使ったとされる。 ルカによる福音書 執筆年代は80年代、場所は地中海沿岸の都市(エジプトとパレスチナ以外)、著者は異邦人出身の無名のキリスト者で、便宜上伝説にしたがって「ルカ」と呼ぶ。 ヨハネによる福音書 執筆年代は90年代、場所はシリアかエフェソで成立したようである。 著者は無名の作者で、彼をよく理解した別の人物が今の形に成したとされる。 使徒行伝 執筆年代は90年代、場所は地中海沿岸の都市のどこか、著者は異邦人出身の無名のキリスト者で、彼を「ルカ」としたのは古代教会の俗説。 パウロ書簡 パウロ自身が記したのは、テサロニケ人への第一の手紙(執筆年代は50年頃)、コリント人への第一の手紙(執筆年代は54年頃)、コリント人への第二の手紙(執筆年代は54年から55年頃にかけての手紙の集合体とされる)、ガラテヤ人への手紙(執筆年代は54年頃)、フィリピ人への手紙(執筆年代は54年後半頃)、フィレモンへの手紙(執筆年代は54年から55年頃)、ローマ人への手紙(執筆年代は55年から56年頃)、これら以外はパウロの名を使った偽書である可能性が高いとされる。 公同書簡 使徒の名前を付けているが、各々の書簡を名前も人物も不祥の別々の者が書いたとされる。 ヨハネの黙示録 著者は小アジアに住み着いた無名のパレスチナユダヤ人、執筆年代は95年から96年頃とされる。 神の愛による救済と隣人愛 [ ] 聖書で言う「愛」はギリシャ語では「アガペー」というが、イエスは学者との論争の中で、旧約聖書に基づき「心を尽くして神を愛せ」「自分自身のように隣人を愛せ」と説き、この二つの事柄が最も重要である、とした。 神の国の実現の時が迫っている [ ] イエスの宣教当時も現在も、ユダヤ教においてはメシア(キリスト)はダビデの家から興り、この世で神の僕として「新しい王国」を支配する、と信じられていて、イエスをメシア(キリスト)とみなしていない。 これはメシア預言の解釈と関係しており、第2イザヤ書(40~55章)中にみられる「苦難の僕」の姿をメシア(キリスト)預言としていないからである。 においてイエスの王国への言及がみられ、『マタイによる福音書』は、が近くの荒野において「悔い改めよ、は近づいた」と宣教していたと記している(3章2)。 また『』は、イエスがヨハネより洗礼を受けたあと「ときは満ちた。 は近づいた。 悔い改めて福音を信ぜよ」と述べたと記している(1章15)。 これは世の終末が近づいており、神の最後の審判に備えて人は悔い改めねばならないという教えである。 さらにはイエスは教えの中で、世の終末・最後の審判ではイエス自身が地上へ帰還(「キリストの」)し、裁き手となると予告した。 終末論的世界観のもとに生きたイエスは、人々に「悔い改めよ」と宣べた。 その目的は「(天の国または天国とは別で教会時代を指す場合もある。 )」に入るためであるが、新井智は、「神の国(バシレイア・テウー)」とは、ここにある、あそこにあるというようなものではなく、「あなたたちの間にある」 と推測している。 イエスの死とその後 [ ] イエスは、伝統的なの一派であるのあり方、形ばかりで内容のともなわない見せかけの善行を痛烈に批判し、「神殿から商人を追い出す」 (売買人を追い出し、両替商の台を倒した)など 様々な批判を行った。 このことは神殿貴族であるに対する大きな脅威であったため、イエスは政治犯として おもにサドカイ派の人間によってに訴えられ、のそばので、ローマ帝国の法に従って に処された。 『マルコによる福音書』は十字架上で刑死したイエスの遺骸を、岩窟式の墓に葬ったと伝え、3日目に訪ねると、イエスの遺骸が消えていたと記している。 川島貞雄と佐藤研は、文献学的な研究では、『マルコによる福音書』はこの記述で終わっており、後に記された復活の記述は後世の加筆である 、と主張している(しかし、「イエスが死後、復活した」ということを明確に主張しているのは、他の福音書と変わらない)。 福音書によれば、イエスは磔の刑により死亡したが、3日目によみがえり、多くの弟子たちの前に姿を現したあと40日間ともに生活し、天に向かって昇って行ったとされる。 加藤隆は、イエスの死後、弟子たちは「ユダヤ教のナザレ派」 として活動した 、と主張している。 新井智、田川建三、真山光彌によると、ほどなくして、に本拠を置くヘブライスト(ヘブライ派)と、異邦人伝道のヘレニスト(ヘレニスム派)の間で、イエスの教えに関して論争が起こった 、とする。 田川によると、その後、の結果として紀元にが破壊されると共に、エルサレムのヘブライ派はほぼ姿を消し、イエスの教えが全域にキリスト教として広がり 、ナザレのイエスはとして知られるようになる。 「史的イエス」 [ ] 問題の発生 [ ] 史的イエスとは、イエスについてキリスト教の観点とは無関係に、など的な手法を用いて探究される歴史上の人物像のことである。 史的イエスに関する研究は、18世紀の哲学者 () がキリスト教の教義によるイエスではなく、十字架刑に至るイエスの人生を見なければならないと問題提起したことに始まる。 ライマールス以来の者たちは、イエス・キリストからキリスト教の教義を分離するという試みにもとづき、多くのイエス伝を著した。 ドイツの神学者は19世紀前半に主著『イエスの生涯』で、『福音書』にあるイエスのは自然現象を誤解したり間違って解釈したもので史実ではないと説明した。 この主張は当時たいへんな驚きをもってむかえられた。 フランスの宗教史家は19世紀後半に著した『イエス伝』によって初めてイエスを人間として 描き出した。 における代表的な学者は、の『共観福音書伝承史』のなかで「の信仰において本質的なことは、『宣教のキリスト』すなわち原始キリスト教団によって宣教()されたキリストなのであって、必ずしも『史実のイエス』ではない」という学説を唱えた。 すなわち、『』、『』、『』、『』の4福音書およびブルトマン学説発表後のにで発見された『』のそれぞれのたち(著者の帰属については、も参照のこと)がとして用いたそのものに、伝承を形成してゆく目的として伝承者の信仰にもとづいたキリストの宣教がすでに内在していたということであり、そもそも福音記者たちに「史的イエス」に関する興味はほとんどなかったという説である。 これは、原始キリスト教史家であるブルトマンみずからが各に対して徹底的な史料批判をおこなって考察したうえで出された結論であった。 このブルトマンの学説は、史料批判によって客観的な史実を打ちたてることが出来ると考えていた的な研究方法や、歴史主義に依拠して「史実のイエス」をみずからのの拠り所として求めるに至った「」に対するきびしい批判であり、のみならず一般にとっても20世紀最大の学的問題となった。 は、5福音書を相互に比較すると、各福音記者が等しく同一人物であるはずの「ナザレのイエス」について記しているにもかかわらず、それぞれの福音書に描写されるイエス像は互いに相当異なっており、全体として多様であることを指摘し 、その理由として、ひとつには各福音記者によって採用されたイエスに関するそのものが異なる場合があることを掲げる一方、『マタイ』と『ルカ』にみられるごとく、両者に共通のイエスの語録資料(いわゆる「」)に依拠しながらも全体としては異なるイエスの言説を読み手に提示する場合があることを指摘し 、このイエス像の多様性は各福音記者における「と視座の設定点」の差異以外からは説明できないはずであり、その設定のありようは詮ずるところ各福音記者の信仰のあり方やその創造力の内実によっているのではないかと指摘している。 議論の経緯 [ ] ブルトマン以前 [ ] 上述のように、「史的イエス」を考察、さらには分析していくうえで最重要とされる史料に、「ナザレのイエス」の言行を収録した『』収載のがある。 したがって、近代以降発展してきたイエスの実像に関する研究が、福音書に対する史料批判にもとづいていることには、特に注意しておかなければならない。 、()が、『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』ののうち、最初に書かれたのは『』であるという「マルコ優先説」を提起するや、『マルコ福音書』の分析にもとづけばイエスの歴史的実像にたどり着けるという見方が当時の聖書学者のなかで有力となっていった。 ()はこの学説にもとづき、、福音書は救い主()であるイエスが自己をする過程を記述したものであるとの見解を発表した。 しかし、この見解は()が発表した「メシアの秘密」仮説の提唱によって深刻な打撃をこうむることになる。 すなわち、ヴレーデは自著『福音書におけるメシアの秘密』()において、『マルコ福音書』のなかで、イエスが弟子や人びとに対し自分をであることを言いふらすことを禁じる(秘密にする)命令をしているのは、イエス自身がそもそもメシア(キリスト)としての自覚を持っていなかったためであり、ホルツマンが注目するような記述は当時の教会神学が生みだしたものであると断じたのである。 これに対してはからにかけて『イエス伝研究史』を著わし、これまでのイエス研究そのものが研究者の思想的背景の単なる投影に過ぎなかったと主張して、イエスは的のなかに生きていたのであり、メシア(キリスト)としての自覚を持っていたという見解を表明した。 ブルトマン以後 [ ] 「ブルトマン学派」とよばれる潮流をつくった聖書学の泰斗 末葉から初頭にかけて、すでに編集され福音書というかたちで示される個々のイエスの言葉や物語について、それぞれの編集の過程や歴史的な位置付けを明らかにしようとする「( )」の試みが、()や上述のルドルフ・カール・ブルトマンらの神学者によって始められた。 この研究方法においては、イエス伝承の形成者としての原始教団は、固有の「文体」、「様式」、「文学類型」を生み出したと想定し、個々の伝承がどのようにして生まれ、どのように個々の福音書の現在みられるような位置に編集されるに至ったか、その歴史的経緯を明らかにすることを目的としている。 したがって、物語のなかのどの言葉が編集のために福音記者が補った言葉(編集句)であるか特定することで伝承を洗い出す作業がなされ、「論争」、「奇跡行為」、「伝説」などの教団の「( Sitz im Leben)」のどこにその伝承が位置づけられるかを明らかにすることで、イエスの歴史的実像に関する諸伝承の成文化以前の歴史的価値を決定しようとしたのである。 ブルトマンに師事した上述のもまた師同様、「宣教のキリスト」から出発した。 ケーゼマンはしかし、が「宣教のキリスト」のなかに「」という文学スタイルで神学的内容を盛りこんでいったのに対し、福音記者たちはどうして、同じ「宣教のキリスト」に「福音書」という文学スタイルを通して史的構成を試みたうえで彼らにとっての同時代に示したのかという問題提起をおこなっている。 それに対するケーゼマン自身の答えは以下のようなものであった。 ヨハネの場合は例外に属するが、福音記者マタイ、マルコ、ルカは、すでにイエスの語録伝承の担い手となった人びとの信仰のなかにみられる「霊的熱狂主義」と対決するために「福音書」という文学形式 を採用した。 つまり、霊的熱狂主義者たちは、天に召された「キリスト」としてのイエスとかれら自身とを「霊的に」同一の境地に達しようと専心して、歴史を超越ないしは歴史性を捨象するという傾きが強かったのに対し、福音記者たちは、十字架刑で極限に達した「イエスの生」を描いていくことで、イエスの歴史性を確保しようとした。 それに対し、パウロは霊的熱狂主義者との書簡の交換において、熱狂主義者の掲げる「栄光のキリスト」に対峙するため、「十字架のキリスト」としての「宣教のキリスト」を自らの立場として提示した。 ケーゼマンに似た立場から、ブルトマン学派のなかでいちはやく「ナザレのイエス」を公表したのが()であった。 ボルンカム著『ナザレのイエス』のは、ドイツので公刊されている。 さて、ディベリウスやブルトマンによってはじめられた「様式史研究」をさらに発展させた新たな試みが、、()らによって始められた。 この研究を「( )」と呼び、それぞれの福音書がどのように編集されたか(編集句)を想定することで、それぞれの福音記者の思想的傾向や文書成立の歴史的背景による文書の特性、および編集方法の特異性が明らかになると主張し、それらの福音書ごとの特性を傍証として、歴史的なイエスの実像に迫る足がかりにしようとする。 日本においても、同様の研究が、らによって進められている。 一方、以降、福音書の原資料として想定される「仮説」にもとづき、をイエスの思想の核とは考えず、イエスを()的なとみなすなどの研究者もあらわれ、一定の支持を集めている。 これらの議論の経緯からもわかるとおり、「史的イエス」の研究は、基本史料たる福音書そのものの歴史的な価値をどう評価するかに大きく左右されている。 また同じ研究手法を採用しても、個々の語句の歴史的評価が研究者によって異なるため、研究者ごとに結論が大きく異なる場合が多い。 さらに日本における編集史研究においては、Q資料の存在による「」を前提とした議論が主流であるのとは対照的に、欧米においては、『マルコ福音書』の先行性を否定したり、Q資料の存在そのものに強く反対する「史的イエス」研究も根強く存在していることには、特に注意を要する。 「史的イエス」の復元 [ ] 復元の根拠となる資料 [ ] 史的イエスを知るための史料は決して多くない。 原始キリスト教からみて外部資料にあたるの文書やの歴史記録などのには、イエスの名が言及されている程度であり、内容的に独立した史料とするにはおよばない。 エジプトの ()において発見されたによる初期、も全体としては単独の史料としての信頼性には疑問がもたれる。 イエスの実在や事績に関しての史料・資料は、考古資料をのぞけば、伝聞やをあつめた二次的なものが多く、結局「史的イエス」の解明には福音書、なかんずく『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』の3福音書が最も重要だということになる。 『』 - 『』、『』、『』、『』• その他の『新約聖書』所収文書• ユダヤ教の古代文書• 「新約聖書」等• ローマ帝国の記録(初頭でのに関する記録等)• 同時代の歴史家の文書(の歴史書等)• 的な資料 史料批判における諸問題 [ ] 様々な古代の思想家と同様、イエスは自分の思想を文字に記すことはなかった。 また、彼の直弟子たちの手によって、その生涯が書き残されることも無かった。 イエスの行動を記した資料である福音書は、彼の生涯を忠実に記すことを意図したものではなく、それぞれの著者が属していた初期キリスト教団の思想を表すための、宣教文書であると考えられ 、その資料としての信頼性は限定的である。 キリスト教外部による史料 [ ] 非キリスト教徒によるは少ない。 イエスの名前が初出するキリスト教外の文書では、の『ユダヤ古代誌』 18:63 やの『年代記』などのごく一部にイエスに関する記述があるが、前者は後代の一部加筆を疑われており、後者は同時代史料でないばかりか、キリスト教徒(「クレストス」を開祖とする宗教)に言及したものである。 したがって、イエスの実在性の根拠とするには問題を含んでいる。 しかし、紀元後30年ころにに対する反逆罪でに処せられた人物のあったことについては、ローマやユダヤ側の史料によってもある程度裏づけられる。 また、十字架刑は、当時ので規定されたであった。 2008年にキリストに言及した最古のものであると考えられる記述を持つ容器がアレキサンドリアの海中遺跡でフランス人考古学者のフランク・ゴディオ氏を中心とする発掘調査グループにより発見された。 この容器は紀元前2世紀後半から紀元1世紀前半のものであり、容器の表面には古代ギリシャ語で「DIA CHRSTOU O GOISTAIS(魔術師たるキリストによるもの)」という文字が刻み込まれている。 2012年の研究者がイタリア・ローマで開かれた学会で、キリストの妻についての発言を記載した古い片が見つかったと発表した。 発表を行ったのはハーバード大学神学校のカレン・キング教授。 パピルスの紙片は縦3. 8センチ横7. 6センチほどの大きさで、エジプトのキリスト教徒が使うコプト語の文字が書かれている。 この中に、「キリストは彼らに向かい、『私の妻が…』と発言した」と記された一節があった。 紙片は個人の収集家が所蔵していたもので、2011年にハーバード大学に持ち込まれ、キング教授が調べていた。 ニューヨーク大学の専門家に鑑定を依頼した結果、本物のパピルスであることが確認されたという。 キング教授によると、内容はキリストと弟子との対話を記録したものとみられ、2世紀半ばごろに書かれたとみられる のちの調査によれば断片自体は6-9世紀におそらく写されたもの。 表裏の両面に文字が書かれており、書物の1ページだった可能性もあるという。 ただしこの紙片は、キリストが結婚していたとする説を裏付ける証拠にはならないとキング氏は指摘する。 一方、キリストが未婚だったことを裏付ける証拠もないといい、キング氏は記者会見で「キリストが結婚していたかどうかは分からないという立場は、以前と変わっていない」と強調した。 キリスト教内部による史料 [ ] ""(邦題「両親の家のキリスト」、作、-) における歴史的実在としてのイエスに対する関心の深まりを反映して描かれた イエスの事績を記述するキリスト教文書(聖書)において、現在残されているイエスに言及する最古の史料は内のの真筆と想定される書簡(『』)である。 しかし、これら残存するパウロの文書には、生前のイエスと直接会っていることをうかがわせる記述はなく 、書簡の中でパウロが出会ったと証言しているのは「後のキリスト」である。 また、パウロにおいて史的イエスの実像を記述した証言は、ほぼ皆無に近い。 『新約聖書』に含まれる、福音書やその他の書簡などの文書についても、イエスの弟子の名前が冠されているものの、イエスが刑死した後かなり年代が経過した後半以降に成立したと推定されており、これらの文書の筆者もイエスを直接には知らないと考えられている [ ]。 したがって、『パウロ書簡』は、実在性を証明する一次史料ではない。 しかしながら、の真筆の手紙によって、イエスの弟子であるや他のたち、またの実在は疑いの余地がない。 もし、イエスが実在しないと仮定すれば、かれらが実際には存在していない自分たちの指導者を作り上げ、いかなる宗派のユダヤ教思想でも考えられないことに、その人物を「神の御子」と呼び、しかもによって「神の御子」が処刑されたうえに、さらに、その死後したという教えを説いてまわったということになる。 かれらに何故そのような複雑で何重にもわたるをする必要があったのか、大きな疑問がのこる。 「史的イエス」を福音書の言行から復元する試みは19世紀より盛んに行われ、聖書内に描かれているイエス像が現実性を欠くことや、各福音書やのが大部分で相互に矛盾するといったこと、またイエスに関する確実な一次史料を欠いていることを理由に、例えばなどからイエスの実在自体を否定する見解が出されるに至った。 しかしながら、その後の新約聖書学の提供する知見からイエスの実在を否定する論はほとんど支持されていない。 復元されたイエス像 [ ] 「史的イエス」の生涯 [ ] キリスト教では異端とされる研究者のは、『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』のの文献学的な比較検討により、イエスの生涯には少なくとも、• バプテスマのヨハネの弟子• ガリラヤにおける宣教• エルサレムにおける処刑 の3つの段階があったと推定できる、としている。 イエスの生年 [ ] 一般に、イエスの生年は - 頃とされている。 紀元前7年とみなす説を採っているのが ()()やであり、やは紀元前4年説に立っている。 これは、『』2章の、イエスがの治世( - 紀元前4年)の末期に生まれたという記述、および『』から推定されているものであるが、キリスト教以外の史料には該当の既述がないため、断定は困難である。 一方、「ナザレのイエスの誕生年は紀元8年」とする説をS. NOKAが2017年の著書で提唱している。 これは、『』の第2章第2節(Luke 2:2)に、「がの総督だった時に行われた最初の住民登録(人口調査)の年(This was the first census that took place while was governor of Syria. )」と明記されていることをベースに、紀元6年、がをとして初めて直轄管理下におき(の始まり)、総督が総督を兼任した事をもって初めて住民登録(人口調査)が可能なのであって、それ以前にはが住民登録(人口調査)を実施する法的権限が無く(は周囲の同盟国・友好国との良好な同盟関係に安定を依存しており、直轄管理下でないエリアで乱暴にも住民登録・人口調査をした例は一切見られない)、その後、紀元8年に初めてで住民登録(人口調査)が実施された歴史事実に基づき、ナザレのイエスの生誕年を紀元8年と推定している。 なお、その翌年の紀元9年には、は総督の任を解かれ、公職から引退し、ローマに帰還し、紀元21年にローマで死去している。 イエスの生地と家系 [ ] ガリラヤの町にある「マリアの井戸」 伝統的には、イエスはユダヤの町においてから生まれたと信じられている。 これは、『マタイによる福音書』1-2章および『ルカによる福音書』2章に拠っている。 しかし、荒井献は、最も先行する福音書と考えられる『』も、さらにそれに先だつ時期に大部分が執筆されたと考えられる『パウロ書簡』も、あるいは福音書中もっとも年代の新しい『』もベツレヘムにおける処女降誕に関する記載がない、と主張する。 のみならず、荒井献は『ヨハネ福音書』においては、イエスはガリラヤの出身であると記されており、『マルコ福音書』『マタイ福音書』『ルカ福音書』のいずれにおいても、イエスがのであることは否定されている 、と主張するが、実際には『マタイ福音書』1章6-17節、『マルコ福音書』10章 47-48節において、イエスがダヴィデ王の子孫である、とする記載があり、『ルカ福音書』1章 27節にもイエスの父、ヨセフがダヴィデ家の者である、とする記載がある。 また母マリアもダビデの子孫である。 『ルカ福音書』によれば、の初代(-)が、全世界の・を命令したが、それはがだったときのことで、人びとは登録のため自分のへ戻ったとされる。 マリアの夫ヨセフはダヴィデ王の流れを汲む家系だったので、マリアをともないガリラヤの町ナザレからダヴィデの町、ユダヤのベツレヘムへおもむいた。 そのとき、マリアからイエスが生まれたとしている。 にもかかわらず、荒井献によれば、『マルコ福音書』『マタイ福音書』のみならず『ルカ福音書』においても、イエスが「人の子」または「主」として超地上的な存在として信じられており、イエスが「キリスト」であるとしても、単なる地上の王であるダヴィデのような世俗的な王者ではないという主張が認められる、という。 すなわち、『マタイ福音書』や『ルカ福音書』においては、イエスの出生について、イエスが「ダヴィデの子」としてベツレヘムに生まれたという伝承と、その一方で超地上的存在として処女から降誕したという伝承が重なっているのであり、これはたがいに矛盾する [ ]。 荒井は、もしもイエスが処女から生まれたとするなら、マリアだけではなく、イエスとも血統的には無関係なはずのヨセフの系図をダヴィデにまで遡行させる必要はない 、と指摘している。 八木は、イエスがダヴィデに連なり、ベツレヘムで生まれたという伝承は、メシア(キリスト)はダヴィデの家系から出て、ベツレヘムに生まれるというから逆につくられた伝承である可能性を指摘している。 荒井は、イエスは誕生物語以外の場面では一貫して「ナザレ人」「ナザレ出身者」の術語が用いられており、これはすべての福音書において一致するとする。 このようにみた場合、イエスの出身地はガリラヤのとみるのが妥当である [ ]。 新井智は、イエスの数人の弟妹のうち実弟といわれる(義人ヤコブ)は、キリスト教会の中心的指導者として実際に活動している と主張する。 イエスの十字架での死 [ ] Ecce homo! (「この人を見よ」)。 ()作、。 の人々へ苦しめられたイエスを示す総督 福音書から、治下での総督だったのもとで、十字架刑に処されたと考えられている。 イエスの死がであることは、福音書に先行する『パウロの書簡』にも記されており、イエスの実在性とともに蓋然性が高いとされる。 なお、十字架の刑は、当時のの規定によるものであった。 イエスの没年は、• の総督在任期間が(-)であること、• 既述のとおりイエスの生年の下限が紀元前4年と考えられること、• イエスが30歳ごろに宣教を始めたというの記述(3章23節) などから判断して、おおよそ前後という想定は学界ではおおむね一致している。 シュタウファー、弓削、はとみなしているが、説もあり、荒井は紀元後30年説を採る。 八木は紀元後32年か紀元後31年としている。 NOKAは、生誕を紀元8年、公生涯を紀元35~紀元38年の約3年半、磔刑を紀元38年4月7日 月 、昇天を紀元38年5月25日 金 としている。 いずれにしても、没年や福音書に記録されているの回数などを信用すれば、イエスが宣教を行った期間は、3年ほどという短い期間だったことになる。 イエスとヨハネ [ ] 荒井献は、イエスの生涯において、ガリラヤでの宣教に先だつ時期にのグループで活動していたことを重視し、2人の行動上における相違点を整理して次の3点が際だった違いであると指摘している。 荒井の主張によると、ヨハネのグループは、「悔い改め」 にふさわしい生活形態として世俗から隔絶した一種の禁欲生活共同体を形成し、ヨハネ自身はラクダの毛衣(けごろも)を着てイナゴと野蜜を食べて「荒野」での洗礼活動をおこなっていたが、イエスはむしろ世俗世界に入ってきわめて自由にふるまい、人びとには洗礼をさずけず、も勧めなかった。 しかし、『ヨハネ福音書』には、「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた」とする記載がある。 また、『マタイ福音書』には、イエスが祈りと共に断食の必要性を認めたり、それをする時は人に見せびらかさずに慎ましくするよう説く記載はある。 当時の人たち はそういったイエスのことを「〈大飯くらいで大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ〉 と非難」 したほどだった、と荒井は指摘する。 また、イエスはを否定しなかった。 は、イエスは決してではなかった 、と主張する。 ヨハネが「神の国」の接近にもとづいて人びとに「悔い改め」を迫ったのに対し、イエスは「神の国」がすでに実現されつつつあると人びとに告知し、人びとがみずから、あえて社会的・的・経済的、場合によっては的にさえも「弱き者」の位置に立とうとするときに立ち現れるものとして「神の国」を説いた [ ]。 イエスにのみ多くの奇跡的な逸話が伝承されている。 これについて荒井は、イエスには実際に病気を治癒する能力があったのかもしれないと指摘している。 ただしそれが、当時の「奇跡物語」という文学形式のなかで高められ、「キリスト(メシア)」あるいは「神の御子」と見なされるべき超人的な力として「宣教のキリスト」に利用されたことも確かな事実である、としている。 八木と荒井の両名は、イエス当時のユダヤの支配者とりわけ政治的・宗教的なエリートであったやの人びとは、かれらの生活の価値基準を、かれらが神より授けられたと信ずる(「伝達のことば」)に置いていたのであり、かれらによれば、人が神の意志を知ることができるのは律法によってのみであって、したがって、律法を守って倫理的に清く正しい生活をしてきた人びとこそが、の際、その功績によって「神の国」に入れられ、律法を守らない者は「神の国」から閉め出されると堅く信じていた 、とする。 荒井によると、しかし、ヨハネは、過去において律法を守って倫理的な生活を送ってきたことを誇り、それを基準として律法を守らない人びと、あるいは、貧困などによって守りたくても守ることのできない人びとを差別し、穢らわしいものとして蔑む心のありようそのものを「罪」と考えたのであり、過去の基準にではなく将来の基準にこそ転換すべきことを主張した。 そして、「神の国」が近づいたことを基準にするのであれば、律法を守りえる者も守りえない者も、よもや同一の地平に立たざるをえないことを訴えた、とする。 これによりヨハネは、従来の価値基準を転換する「回心」としての「悔い改め」を説き、「荒野での洗礼活動」をはじめたのであった [ ]。 荒井は「神の国」の真の到来は、律法を遵守して生活してきたという過去を誇る者がむしろ神によるの対象となり、律法を守ろうとしても守りえない者がかえって神によるの対象となりうるというを生じせしめるのであり、ヨハネはそこにこそ「悔い改め」が求められ、また、それにふさわしい倫理的・禁欲的な生活上の実践が求められているとする。 こうしたヨハネの思想に共鳴し、かれの洗礼活動に参加した人びとのなかにイエスやペトロがいた。 そしてイエスは、「悔い改め」の思想をいっそう徹底することによってヨハネの禁欲主義的傾向から脱却していく。 ヨハネ思想の批判的継承者となったイエスは、こうしてヨハネの教団を離れ、ガリラヤへの宣教へおもむいた [ ]。 「貧しき者は幸いである」 、「取税人や遊女は汝らよりも先に神の国に入る」 などの福音(イエスのことば)に示されるように、イエスは、人間がみずからの民族的・社会的・経済的・倫理的な有能感に立ち、自己を中心に他者の価値を審断しようという心持ちを批判し、人がそうした態度を捨てて、神への信仰によってむしろ自己を相対化し、自身をあえて弱者の側に立つと決意するならば、そこに「神の国」は実現されつつある、と荒井は唱えた。 そして、荒井によると、イエスは当時政治的・宗教的指導者によって「罪人」ないしは「アム・ハ・アレツ」(「地の民」)として蔑まれ、不浄視され、法によって交わることを禁じられていたや病人、とりわけ患者や患者と法を犯しても親交をむすび、みずからこうした弱者、被差別者たちの一員となることによって傷害や病気を癒そうとした 、とする。 イエスの生涯に多くの奇跡物語の伝承がともなっているのは、まさに、このためであろう、と荒井は考えるのである。 革命家イエス [ ] 革命家としてのイエスは様々な解釈が存在する。 の歴史家ででもあった ()()は、に発表した" The Death of Jesus " (邦題『キリストはなぜ殺されたのか』。 訳、刊。 ) において、イエスはみずから「ユダヤ人の王」としてローマの支配体制に抵抗し、最終的には武力革命の興起を試みた結果、当時のアンチローマ・ラディカリストである「ゼーロータイ」()の1人として、ローマ帝国の派遣したユダヤ総督によって磔刑に処せられた、という解釈を施している。 このように、イエスを政治的文脈でとらえようとする著作は、歴史家のイエス研究のなかから現れて来る。 の研究者 ()()はに" Jesus and the Zealots , A study of the political Factor in Premitive Christianity "(邦題『イエスとゼーロータイ — 原始キリスト教における政治的要素に関する研究』)を著し、同じころ、日本の学者土井正興は『イエス・キリスト — その歴史的追究』(、)を著している。 土井のイエス像は、当時、不浄なものとして差別され、虐げられていた「アム・ハ・アレツ」(「地の民」)と共に立ち、かれらを宗教的に救済しようとするいっぽうで、ゼーロータイ的な政治革命への志向性をも有し、その両者を統合しようとするが、有効な革命理論の定立と行動の組織化に破綻を来したため、イエスはみずからの運動に挫折した、というものである。 歴史家によるイエス研究については、上述した聖書学者たちによる史料批判の成果が一顧だにされない傾向について批判があり 、とくににおける革命家的側面の強調については、ひろくみて「現象」のひとつではなかったかとの見解もある。 川村輝典訳、刊。 1972年)がある。 クルマンによれば、イエスは「ゼーロータイ」と称された当時の革命家たちよりもむしろ革命的であった、何となれば、イエスは「神の国」建設とその手段としての政治的行動計画さえ拒否して人びとの心の革命(「悔い改め」)をこそ問題にしたからなのであった。 一方、は、イエスを政治的革命家に仕立て上げることも、政治とは関わりのない宗教的次元に押し込むことも不適当であるとし、政治と宗教が不可分であった背景において、イエスが社会的に差別の対象とされていた民衆と共に立ったことが、既にそれだけで宗教的=政治的であったと指摘している。 またエルサレム神殿は当時においてユダヤの政治・経済的拠点であり、神殿から両替商を追い出した、あるいは、神殿を打ち壊すと言ったとすれば、それらは決定的な政治批判になるとしている。 美術におけるイエス [ ] に画かれた(の蔵)。 褐色の髪と瞳で画かれている。 西ヨーロッパの宗教画やキリスト彫像は白人の痩せたのイメージで作られるのが一般である。 しかし現在の欧米の研究者の間ではではあるがから沿岸一帯にかけて分布する、いわゆる地中海地方特有の人種であったと想定されており、北方ヨーロッパ系の形質の身体であったとは考えにくい。 なお、北欧系白人の形質としてイエスが描かれて来たのはに限定される現象である。 のにおいては、古くから地中海人種の特徴をそなえたかたちでイエスは画かれてきた。 現代の主要な研究 [ ] ルドルフ・カール・ブルトマン [ ] ドイツのは多くの点でとは対立する新約聖書学者であるが、運動の初期においては、バルトの陣営に立っていた。 やがて、バルトとは異なり、新約聖書の徹底したクリティカルな研究に進み、の『共観福音書伝承史』では、『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』の3が複数の多様な伝承資料から成るものとして分析し、当時すでに学において用いられていた様式史批判の手法を用いて、各資料で伝えられてきた「」がイエスの死後発展した原始キリスト教の信仰と祭儀にあることを明らかにした。 これによって、福音書は歴史報告ではないことを明証するとともに、現在残されている福音書から「史的イエス」そのものの実際の姿を再現することは歴史学的には困難であり、新約聖書の本来の性格はむしろイエスをキリストとして伝える(宣教)にあるという結論を導き、当時、歴史主義に大きく依拠していた自由主義神学を批判した。 後は、『新約聖書』にあらわれた思考そのものが、全体として神話論的性格を濃厚に有するものであるとして、その「非神話化」を提唱した。 ただし、「非神話化」とは神話的部分を削除しようということではなく、全体として神話論的につらぬかれた聖書の告知が内包するところの「実存理解」を学的に解明しようということであり 、この点においては、ドイツの哲学者の影響を受けている。 また、ドイツの神学者 ()(Herbert Braun)やの神学者 ()(James M. Robinson)も、やはり、「宣教のキリスト」と「史的イエス」とを、両者の「実存理解」においてとらえようとする (H. ブラウン" Jesus, Der Mann ans Nazareth und seine Zeit. (邦題『イエス — ナザレの人とその時代』、)、および、J. ロビンソン" Historisher Jesus und kerygmatischer Christus"(邦題『歴史のイエスと宣教のキリスト』、1960年)。 これらの見解は、いずれもかつてブルトマンが新約聖書の解釈方法としてハイデッガーより援用した実存論的解釈を「史的イエス」にまで拡大して得られた理解をもとにしていると考えられる。 エルンスト・ケーゼマン [ ] ドイツのは、福音記者たちは、十字架刑で極限に達した「イエスの生」を描くことで、イエスの歴史性を確保しようとした(ただし、ヨハネをのぞく)のに対し、他の戦線にあったパウロは、霊的熱狂主義者との書簡の交換において、熱狂主義者の掲げる「栄光のキリスト」に対峙するため、「十字架のキリスト」としての「宣教のキリスト」を打ち出したものであると主張した。 ケーゼマンの問題意識にしたがうなら、原始キリスト教団の人びとにおける「宣教のキリスト」は、かれらがイエスの生と死の「事実性」のなかに救いの意味を感得した限りにおいて、それと「史的イエス」とは時間的に接続し、本質的に双方はたがいに対応関係にあることとなる。 八木誠一 [ ] ケーゼマンに学んだは、「神の国」にじかに接して生きたイエスその人の実存理解は、「キリスト」に遭遇して生きた原始キリスト教団の人びとのうちに彼らの「復活信仰」を通じて間接的に伝えられたと説く。 この点では、八木はケーゼマンよりむしろ実存主義の影響を受けたヘルベルト・ブラウンやJ. ロビンソンの立場に近いといえる。 ただし八木は、人間実存の根底となる部分について、ケーゼマンの指摘した「事実性」にの内実を委ねることは、むしろ歴史の一部を過度に絶対化する懸念がもたれるとして、そこにみられる歴史主義への傾きを批判している。 八木によれば、人間実存の根底は、人間に対して歴史を越えながら人間実存をそのうちに生起せしめる「統合への規定」としてはたらくのであって、これは本来、的ないし的なものではなくてなものである。 したがって、キリスト者のみならず、たとえばもまた知っていたはずであるとして、宗教の本質をそこにみようとする。 八木は、イエスという人物を「統合への規定」「人間の根源的な規定の存在と働き」に即して生きたひとりの人間の例としてとらえるのである。 ブルトマン学派に批判的な諸学者 [ ] ドイツ以外の諸国やの新約聖書学者たちは、ブルトマン学派の学績やそのイエスの位置づけに対し、福音書の伝承批判の部分をのぞけば、否定的見解を示す場合が多い。 ただし、アメリカのJ. ()(Ethelbert Stauffer)は、イェレミアスとほぼ同様の手法によって取り出された「真のイエスのことば」のみならず、当時のユダヤ文献との照合によってイエスの業(・奇跡行為・復活)にその歴史的信憑性を認め、これらイエスの業を『ヨハネによる福音書』における人物伝的枠組のなかにおさめてイエスの原像を復元し、さらにこれを「すべてのものの基準」に設定して、福音記者だけではなくパウロの「宣教のキリスト」に対しても批判を加えている。 荒井献 [ ] シュタウファーに師事した日本における新研究者であるは、イエス自身が決して「最下層の庶民」に属していないと主張しながら 、彼の思想と行動は、徹頭徹尾この「庶民」との連帯をめざすものであったとし 、イエスを革命家と把握しようとする歴史家たち、および、それに対してイエスをもっぱら精神の変革者と把握する聖書学者たちは、いずれもととを互いに異なった領域として分離する近代的思考の枠組みから自由ではないと批判して 、「庶民」に視座を設定することによって「史的イエス」の実像に接近しようとした、としている。 すなわち荒井は(彼自身は歴史学者ではないが)、史料批判によってイエス伝承の古層にせまり、その伝承の担い手であったことが確実な庶民層に視点を置くことで、イエスの振る舞いを西洋古代史の歴史的文脈のなかでとらえ、位置づけようと試みた 、と主張する。 その結果、イエス受難伝承の最古層においては、のちに、イエスを「」としてとらえる機縁となった「信仰」は未だ明瞭なかたちでは立ち現れていなかったと論述した。 田川建三 [ ] ブルトマンに批判的なの聖書学界のなかでは最もブルトマンに近いエティエンヌ・トロクメに師事したは、日本に帰国後、にしてへ入党宣言をしたと出会い、を経験し、「造反教員」としてから追放されている。 その後、彼は「神を信じないクリスチャン」を自称するようになり 、このような特異な経験と彼独自の新約聖書学、およびその研究によって、既存のキリスト教なかんずくパウロの思想のなかに「現実と観念の逆転」を指摘し、キリスト信仰そのもののをうったえた。 田川は、イエスの生きた時代史と神観、律法観、終末観等の各論とのあいだに相互関係をほとんど示さない神学を批判して、イエスの言葉の神学的ないし実存論的な解釈では、イエスを正しく歴史のなかに位置づけることはできないと説き、また、を中心にエルサレムの地に形成されつつつあった原始キリスト教団の主流に対し、辺境ガリラヤに生きる民衆の立場から批判を加える作業として「福音書」を編んだとしてマルコを高く評価し、イエスの言葉伝承を、物語伝承を仲立ちとしてイエスを古代の歴史的文脈のなかへ取り戻すことによって、「逆説的反抗者」として生きたイエスという男の「生と死の再現」を試みたのである。 諸宗教におけるイエス [ ] キリスト教におけるイエス [ ]• 誕生日は不明。 『』にも言及がない(, p. 国立国会図書館サーチ. 2019年11月27日閲覧。 の筆頭が「ナザレのイエス」と言っている(『』10章38節)。 がする決定的な場面ではイエス自身が「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」と言っている(『』22章8節、『』)。 ただし22章8節は『』では「わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである」となっている。 ただし出身であったという確実な史料はない、『福音書』でもナザレは出生場所ではなく幼少期に育った所とされている。 福音書に共通して記されているのは、イエスはを救う者として民衆から待望されていた( 3:15)(メシア)だということである。 1:16, マタイ 16:20, 8:29, ルカ 2:11, 20:31 参照。 「(中略)は伝承において常に最初におかれる」(, p. 306. マルコ 15:47 とその並行文、マルコ 16:1 とその並行文、ルカ 24:10)。 たちは男性のを主張しているが、福音書においてマグダラのマリアや帰依する女たちは、イエスの処刑に立ち会ったり復活のイエスに出会ったりと、重要な役回りを演じている(, pp. 4-9)。 『福音書』に加えて『』などの『』におけるマグダラのマリアについては、, pp. 4-24 参照。 「マグダラのマリアは、グノーシス派一般において非常に高い位置を占めている。 」(, p. 155)。 , p. 182 参照。 「」は、伝えられたイエスの言葉をもとにして、『』の著者がのに代わる「新しい秩序(的律法)を提示しようとしたものである」()。 , p. 240 も同趣旨。 また、「山上の垂訓」は『』にさかのぼるイエスの真の言葉であるとの研究(, pp. 270-276)がある一方で、アメリカ圏のリベラル系に属すると思われる らの研究者グループ によれば、山上の垂訓の一番有名な箇所であるマタイ 5:3-5:12 の10句ですら、イエスの言葉にたどれる可能性が高いのは3句 5:3, 5:4, 5:6 , その可能性が無い訳ではないものが3句 5:10, 5:11, 5:12 に過ぎない , [ ] とされる。 , p. 15 参照。 "gar hee basileia tou theou entos hyuumoon estin. " , Kata Loukan 17:21〈ルカ 17:21〉. , p. 26 および, p. 351 参照。 は「では,奴隷の重罪者,ないしはの反逆者に対してのみ行なわれた処刑法.(後略)」(, 補注 p. 福音書に明記されていないが、処刑はローマ帝国の法に依っている。 なぜなら、はローマ帝国のになっていてもある程度の自治権は残されていたことから、「特にに代表されるに比べるとはよりよき支配者であり、むしろ寛大なその統治の下にあっては事実上公認され、はなかった」(, p. 47)ので、もし「ユダヤ教当局だけがイエスを殺そうとしたのなら、石打ちにしたはずだ。 」(, pp. 352-353)からである。 , pp. 229-234 「ギリシャ語を話すユダヤ人」および, p. 570 参照。 , p. 643 参照。 「もし福音書を現代における文学類型の中にあてはめることを許されるとすれば、それは、『歴史記述』というよりは、むしろ『歴史小説』に近いのではないかと思われる。 (後略)」(, p. 「」を参照。 , p. 165 参照。 , p. 77 および , p. 164 参照。 「マルコ」については、 ()が書いた「マルコ」についての「多分最も古い記録が(中略)ある」(, p. 402. 引用あり)および, p. 88 参照。 ヨハネのいう「悔い改め」とは道徳的な反省・懺悔という意味ではなく、生きる上での考え方、価値の基準をまったく変えてしまうことを意味する(, )、とする。 「メシアニック・ジュー(イエスを信じるユダヤ人)の誕生」( 「二章 初期キリスト教時代の反ユダヤ主義」)参照。 「仮現論と反仮現論」(, pp. 138-139)参照。 「マニ教のイエス論にはさまざまなレベルがあるので要注意である。 」(, p. 271)。 同書 pp. 268-271 「マニ教の神話 イエスの派遣」参照。 ; 参照。 , p. 310 参照。 出典 [ ]• Sanders• 66-67• 「カルヴァリ」, 「ゴルゴタ」, , p. 199, p. 311• 846• , p. 254• , p. 334. 「イエスは(中略)新しいユダヤ教セクトを起こした。 , p. 193• 「ヤコブ(聖)」, , p. 837• 山上の垂訓の中核に位置するものとして、主の祈りがある。 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P91• マタイによる福音書5-9• マタイ6-26• ガラテヤ人への手紙5-13• , p. マタイ6-9~13• 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P91• 「コリント人への第二の手紙13-11」においては「愛と平和の神」とするのはここのみであるとされる。 (『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P574)、パウロが挨拶として使用している箇所は、テサロニケ第一の手紙5-23、コリント人への第一の手紙14-33、フィリピ人への手紙4-9、ローマ人への手紙15-33がある。 マルコ12-29においては、神は唯一の神ではなく、(唯一の神と表記すべき個所を)一なる神と表記しているとされている。 (『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P53)また、マルコによる福音書9-38~40には、唯一神教に見られがちな、排他性・異端排斥とは異なる立場が記されている。 後のキリスト教とは異なり、異端信仰については、これを止めてはならないとナザレのイエスはしたとしている。 マタイによる福音書5-9• 特定の像を拝まずにいた。 天の想起のしかたについては、コリント第二の手紙12-21にパウロの天界の体験が記されている。 (『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P571)また、霊的想起の仕方については、コリント人への第一の手紙15-44がある。 マタイ6-26• ルカ福音書17-20の箇所については、「神の王国はうかがい得るさまで到来することはない。 あなたたちの〔現実の〕ただ中にあるのだ」、と訳されている。 その解説では「現実のど真ん中に」と解し、一つ一つの現実が神の王国の活ける譬えそのものである、という趣旨。 それは心の眼を開かぬ限り、客観的に観察してもわかるものではない、とされている。 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P267、ローマ人への手紙14-17、コリント人への第一の手紙4-20• 神への祈りについて説かれた時点においては、祈りとナザレのイエスとの集団生活の中に神の王国は現れていたと見ることが出来る。 また、神の王国については、終末信仰と関連したものとするよりは、文明創造的なニュアンスがうかがえる。 マルコによる福音書4-21、マルコによる福音書9-50• ガラテヤ人への手紙5-13• 悪とは外的なものではなく、内的なものであり、回心と祈りを妨げるもの。 神の王国は近づいた。 回心せよ(マルコによる福音書1-15)。 欲情を覚えてしまうものは、心の中ですでに姦淫をしたのである(マタイによる福音書5-28)。 心の中の悪(マルコ7-21)。 例えば姦淫であれば、罪を犯したことからの神による救済ではなく、欲情が動いてしまう悪しき心からの救済を神に祈ることとなる。 教会等で、主の祈りの最後に唱えられる「なぜなら、王国と力と栄光は、永久にあなたのものだからです、アーメン」に相当する部分は明らかに後代の加筆であるとされている。 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P93• 、2017年7月5日閲覧。 , p. , p. 174• 13-14• 「ヨハネ」, p. 1101• , p. 144• , p. 122• , pp. 162-164• , pp. 44, 54• 出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P921• コリント人への第一の手紙15-9• 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P916• 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P915• 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P917• 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P918• 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P919• 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P920~P933• 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P934~P938• 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P939• , p. マルサ・モリスン,スティーヴン・F・ブラウン『ユダヤ教 シリーズ世界の宗教』,• , p. 「メシア」, p. 1049• この箇所は、直訳すると「福音の中で信ぜよ」となる。 「福音」が対像的であるよりは、生きた空間ないしは場であることを示唆しているとする。 「神の福音」はユダヤ教イエス派の定型表現とされる。 『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P5)• , p. 2018年5月11日閲覧。 マタイ 21:12 見出し• ヨハネ 2:13-22, マルコ 11:15-17. ルカ 23:1-5• , p. 203. , p. , p. 259. , p. , p. 「当時の言い方」• , pp. 56-58• , p. 216• , p. 232• , p. 545• , p. 1206• , p. 13, pp. 18-19• , p. 187• NBC News. 2008年10月1日. 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